2020.3.31「東京」

東京に来てから1年が経っていた。
去年の今日は引っ越しの荷物の準備と新生活の隙間のような一日だった。家電を買い揃え、新生活の準備も落ち着いたので、今こそとばかりに東京の街へ繰り出した。
まず目黒川の桜を見に行った。東京の春、目黒川の桜。くるりの「東京レレレのレ」を聴きながら、東京の桜が見たいと思った。
すさまじい人混みで、桜どころではなかったけれど、美しい景色だった。東京の桜は川のすぐ近くに並んでいて、見上げるというよりも目線と同じ高さにあるのだと思った。
そのあと仮住まいの近くにあったムーミンカフェに行った。大阪にはムーミンカフェがない。東京に対する怨念が凄まじかった私は、とにかく「東京にしかない好きなもの」を少しでも享受しようとしていた。
ムーミンカフェでスナフキンの顔の描かれたカフェラテを飲んだ。味がどうこうという話ではなかった。「ムーミンカフェでスナフキンの顔を飲む」をやることが大事だった。

この一年、東京で「やりたいこと全部やる」をやった。行きたいコンサート、行きたいイベント、行きたい店、行きたい街、全部に行った。本当にほぼ全て行ったと思う。
異動で東京を離れる可能性があるため、いつでもこれが最後、と思って東京の日々を送ろうと決めていた。本当にずっと生き急いでいるようだったし、東京に暮らしていると思うと、家でだらだら過ごすこともできなかった。だって外には東京が広がっている。行きたかったあの街、あの場所が呼んでいる。この一年、家にいるだけの一日のなんと少なかったことだろう。どこもかしこも行きたい場所で溢れていた。

吉田篤弘の「おやすみ、東京」も終盤に差し掛かっている。この本を買ったのは確か2018年の夏、好きな音楽家のコンサートのために日帰りで東京に行った帰りの道すがらだった。
東京に出てこられるか不確定だった間は、なんとなく読むのを避けていた。東京に出てきてからは本よりも目の前の街に夢中で、読むことを忘れていた。
ここ数日で読み進めて、自分の立っている場所が明確に変化しているのを感じた。物語の中の「東京」は自分の暮らす街となり、物語の中の人々は自分の近くに住む人となっていた。
吉田篤弘の物語の中の「東京」はいつでも魅力的で、幻のようで、それは今でも変わらない。ただそこにいる人々がこの街に住んでいるという実感は、東京に住んでみなければ得られない。東京には「物語を実感する特権」が無数に与えられている。つくづくずるい街だと思う。

ここ数日、東京に出てきていなかったらどうなっていただろうと無意識に想像を巡らせている。ただどんな状況であっても、きっと自分は東京に出てくるのだろうな。好きな人も好きなものも、みんなこの街にあるから。
つくづく自分は運がよかったのだと思う。言うのも憚られることだが、「今年だけかもしれない」と一年間東京を歩き続けたのは間違いではなかったのだという生々しい実感がある。
もちろん、やり残していることは山ほどある。まだ下北沢で演劇を見ていない(ヴィレヴァンに通うだけになってしまった)。早稲田松竹で見たい映画が山ほどある(早稲田松竹への愛が大きすぎるので、いつかこの話も書きたい)。行っていない劇場がたくさんあるし、サントリーホールにも行ってないし、N響も聴いていないし、あの本屋にも、あのCD屋にも、あの喫茶店にも行っていない。今会いたい人に会えていない。今聴きたい音を聴けていない。まだ私の東京を終わるわけにはいかない。

くるりの東京を聴くタイミング、いつのまにか完全に逃してしまったな。あの曲を聴くべき時は、一体いつだったんだろう。