2021.9.28「市街劇ノック/配信画面のチャット」

かわなかのぶひろの映像作品を上映していたので見た。天井桟敷の「市街劇ノック」の映像を見たかったので…。

「市街劇ノック」もう何度もテレビや美術館の展示で少しずつ見たことはあったが、ここまでしっかり映像を見るのは初めてだった。
この人たち本当にヤバいことをしているな……。観客参加型の演劇というところまではいいんだけど、普通に警察沙汰になりまくっている。見知らぬ男性の行動を逐一観察してその行動を詳しく書いた手紙を本人に送る「今で言うストーカー行為」、たしかにストーカーでしかないなそれは。
普通の家にカメラを置き、役者が入っていって突然セリフで会話を始めるという映像が面白かった。いやこれも訴えられたら勝ち目はない映像なんだけど…。コントで設定される状況を現実でやっている感じだった。

どの作品にも観客がおり、参加型なので人数的に参加できなかった観客が出てくる。その観客が寺山修司にクレームをつけている場面があって、びっくりした。寺山修司に対してクレームを言える時代があるんだ。
やってること自体はすごいんだけど、観客も社会も受け入れ方は今とたいして変わらないんだな……と思った。寺山修司のやっていることを面白いと思っている人たちも、自分たちが観客からあぶれたら普通に文句言えるんだな…。
最終的に、参加できなかった観客のために街中にテレビ中継会場が設営されていた。「市街劇ノック」にライビュあったんだ。

寺山修司、やっぱり現実と虚構の境目のことをずっと考え続けていた人なんだな。やってることは今ではほぼほぼ犯罪だったとしても……。
「市街劇ノック」の記録映像には、その性質上参加している観客の姿もしっかり写っている。参加した観客の感想のような独り言や、突然演劇に巻き込まれて口走った台詞のような言葉も記録されている。この人の作品では、観客もまた見られているということを常に意識させられる。

Vtuberの配信のチャット欄も参加型の演劇のようなものかもしれない。物語の中に生きている人の配信だとそういう瞬間が多い。そうでなくても、私自身が参加しない限りは目に映るチャットも全て作品の一部となる。
私はライブ配信のチャット文化が苦手なのであまり見ないようにはしているが、配信画面にチャットを流しているような人の場合、それはもう「見ろ」ということなのだろうな、作品の一部として…。
そう考えると、配信画面にコメントを流す人と流さない人で、自身を形作るものが「何」なのかという意識の差が見える。また光る地図の話になってしまうな。

でもチャットに参加していなかったとしても、「Vtuberの配信を自室のPCで見ている人」という存在になっているわけで、そういう自分を自分自身が後ろから眺めている感覚が常にある。寺山修司の書簡演劇も、「自分という他者に自分が見られている」という感覚を呼び起こす目的だと言っていた。
みんなも一回「ガチ恋粘着獣」を読んでみるといいよ。ガチ恋とか関係なく、インターネットの配信を見ている人間なら絶対にこれになるから……。

次に阿佐ヶ谷に行った時は市街劇ノックの行われた場所が見てみたい。映像が再編集された2007年の時点でほとんどその面影はなくなっていたけど。
阿佐ヶ谷という地名を最初に知ったのは確かこのあたりの演劇が盛んだった場所、という認識だったと思う。阿佐ヶ谷スパイダースとか、演劇の街という印象だったな。ダブル……………………………………………………