やること全部やってて偉すぎる!!!!そのかわり無の時間も多かったけど。
各アイドルのソロが入ったCDを買うと、なんとなく流しているといつのまにかずっと同じ曲を聴き続けていたりして怖い。
私には確実に「終わったもの」への感情があるので、終わらないアイドルマスターのアイドルというのは不思議だ。いや、まだ誰も終わりを迎えていないだけで、いつかかならず何らかの形によるピリオドが打たれるんだけど...。
現実のアイドルは「アイドル」としての舞台から降りても、その先にアイドルではない人間としての人生があるけど、アイドルマスターのアイドルにはない。アイドルマスターのアイドルは終わったら「終わり」で、それ以上は想像でしかなくなってしまう。
(いや、たとえば声を演じている人間が舞台に立たなくなっても、そのセリフやテキストが永遠に更新されれば生きているということになるのか? そんなことが起きるのかはわからないが...)
ではVtuberはどうなんだろう。彼らが終わった後もきっと人生は続く....続くのか? これって現実のアイドルとフィクションのアイドル(の演者)どちらに置けば良いんだろう。
A:別の名前、別の姿なら別人なのか? Vtuberは一つの人格としての人生を生きている。舞台上のキャラクターとしての役割を負えても、その人生は続く。この点は現実のアイドルと同じ捉え方ができるのではないか。
B:いや、そういう問題は置いておいて、もっと現実的な「その人か否か」の問題に絞ろう。
現実のアイドルはひとりの人間(舞台上/舞台裏)と断定できる。しかしフィクションのアイドルは明らかに舞台上のキャラクター/舞台裏の演者であり、それは別の人間と捉えられる。
A:それはそうだ。現実のアイドルとフィクションのアイドルでは明らかに仕組みが違う。それは間違いない。
B:ではVtuberはどうなる? ひとりの人間(舞台上/舞台裏)という構造を持っているだろうか。
私は持っていないと言えると思う。なぜなら、彼らは舞台を降りた瞬間、我々には視認できなくなるからだ。たとえ人格を共有する別の外見、別の名前の人間がその後の人生を送っていたとしても、それを捉えることはできないし、捉えた時点でそれは「別人」だ。
観客がいなければ舞台は成立しないのだから、観客が現実として触れることのできない舞台裏は存在しないに等しい。それは想像でしかない。
A:たしかに、舞台を降りたVtuberの姿を観客が視認することはできない。しかしその事実によって、「Vtuberの舞台裏は存在しない」と言い切ることができるだろうか?
少なくともVtuber(と人格を共有する人間)本人は、「自分が自分である」ということを知っているはずだ。彼ら自身がそう認識している時点で、彼らは舞台裏に存在するし、舞台を降りた後でも生き続けていると言えるのではないか。
B:なるほど、観客にとっての認識ではなく、演者にとっての認識ということか。たしかに人格を現実の人間と共有するVtuberならではの在り方と言えるかもしれない。
しかし、それでも「舞台を降りたVtuber」というものは存在しないよ。だって、彼らにとっては舞台を降りた時点で、それは「かつてあるVtuberと人格を共有していたひとりの人間」でしかないんだから。
その後の人生はその人間のものであって、Vtuberのものとは言えない。だからやっぱりVtuberというのは、舞台を降りたら終わりの存在なんだと思う。
私:この意味無しディベートっていつ終わりますか?