2022.1.11「アイドル曲のキャラソン感」

今朝のnoteめちゃくちゃ鬱で笑ってしまった。朝に書くのは良くない、低血圧だから....

日記だと思って書くから書けることがなくなるんだな。エッセイだと思って書こう。8割アイドルマスターエッセイだけど。

アイドルマスターSideMのソロ曲2周目が来ることが決まってしまった。SideMやシャイニーカラーズは基本ユニットで曲が作られるので、一人一人のアイドルの曲は少ない。
SideMも今までソロ曲はひとつだけ(秋月涼さんや天ヶ瀬冬馬さんといった別事務所時代がある人は別)だったのだが、ついに2曲目が来るらしい。本当か? 

アイドルマスターに限らず、一人のキャラクターに作られる曲というのは押し並べて「キャラソン」になりがちという性質を持っていると思う。
ユニット曲が世界観やコンセプトを持った曲であることが多いのに対して、ソロ曲ではそのキャラクターの人生や人間性について歌われることが多い。

これは「アイドルたちが仕事で歌っている曲」感が薄い、という意味でもある。
これが普段は一切歌わないキャラクターの歌であればキャラクターソングという扱いで良いのだろうが、アイドルマスターにおいては「この曲はどちらの世界に属するのか」という問題やが生じる。
私たちはプロデューサーの視点に立っているのでアイドルたちの人生や人間性の深部に触れることがあるが、彼らにとってのファンは必ずしもそうではない。

SideMのソロ曲も、基本的にキャラクターソングの色合いが濃いようにも感じられる。彼らの過去や思いを知っているからこそ味わい深い歌詞が多い。
私はどちらかというとアイドルの実在感を得たいと思っているタイプなので、「アイドルが仕事で歌っている曲」の方が好みであることが多かった。
たとえば 765ASのアイドルたちは鬼のようにソロ曲を歌いまくっているので、あらゆる方向性の曲を網羅している。
(でもアケマス時代のソロ曲って全然人間性と関係なくアイドル曲という感じのものも多くて、一曲目でそれはすごくないか? と思う。今とそもそもキャラクターの扱い方が違ったという印象がある)

けれど、一年以上SideMを追った上でソロ曲を聴くと、その「キャラソン感」が染み渡っていく瞬間が増えていくことに気がついた。彼らが歩んできた人生やその想いを知れば知るほど、ソロ曲の歌詞で泣くようになる。
これは「実在性」を得る楽しみ方とは異なるのだろうかと思ったが、そんなこともない気がする。
実在するアイドルのファンだって、だんだんそのアイドルたちの人間性やその人生に深く触れることで、彼らが舞台に立っていることそのものに涙するということはあると思う。そういうファンにとっては、アイドル自身の人間性について歌った「キャラソン」的な曲こそが、アイドルソングになり得るのではないか。

そもそも今のアイドルは「自らがアイドルであること」そのものを歌っていることが多い印象がある。
これはもしかすると、実在のアイドルの方が非実在アイドルの在り方に寄っていっているのかもしれない。

(→と考えると、さっき触れた765AS曲の非キャラソン感というのは、もしかすると実在アイドル曲の在り方が今よりもキャラソンから離れていたから...?)

なんの話かというと、アイドルマスターSideMのソロ曲2周目は、1周目よりも「アイドルが仕事で歌っている歌」感が強くなるかもしれないし、ならないかもしれないし、どちらにしても私は号泣するという話だった。なるほどね。

 

めちゃくちゃ書いたな。やっぱこれだよ。日記なんて書こうと思わない方がいい。書きたいものだけ書こう。
明日は「アイドルの演者とイヤモニの関係性」の話を書きま〜す