2021.9.7「「私」の目に映るのは」

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銀座は居心地が良い。道が広いから。

対外的な忙しさが続くと、シャドーボクシングを続けているような精神状態になる。一度その状態に入るとしばらく抜けないので、急がなくても良いところで必要以上にあくせくと動いてしまう。
走り出したらいきなり止まらない方がいいのと同じかもしれない。マラソンの後しばらく足踏みを続けている状態で一定時間を置かないと、忙しい時の精神状態のままで色々なものに接してしまい、軽く投げるだけでいいボールを豪速球で返してしまったりする。

ユリイカバーチャルYoutuber特集、めちゃくちゃ面白い...。
今の時点では泉信行さんの文章が面白かった。Vtuberといってもその在り方は多種多様で、私たちの目に映るアバターが「その存在そのもの」である場合と、「さらにその向こう側にある同じ姿をした存在が配信用に与えられた姿」の場合がある、っぽい。(だから後者の場合、その声が遠かったら「彼ら自身」がマイクから離れている。)

それぞれのグループ、事務所、個人にそれぞれの世界観があるとして、私は多分それを知識として得たいのではなく、認識としてどのように受け入れるかを考えたいのだと思う。
「そういう体(てい)」で理解することは簡単だが、それではあまり意味がないような気がする。
自分の実感として、私が「私」として「世界」を認識しているのと同じようにして、Vtuberという存在をわかりたい。言葉で伝えようのない感覚なのかもしれない。

なんか脳が美学になっちゃった...。実際ユリイカには美学者の人が寄稿していたりもして面白い。
いやでも私はこれを一つのコンテンツ、作品として分析したいというよりも、新しい存在の在り方として理解したいと思っているので、美学というより広く哲学なのかもしれない。
私は何もわかっていないですが、Vtuberについて色々な哲学者の人に議論してもらいたいなと思っています。

こういうことを考え続けるフェーズと「うわ〜〜〜こ、この人面白い〜〜〜〜、あ、あ、助けて、実在〜〜〜〜〜〜」という状態が同時に来ている。それを抑えたくてこういうことを考えている...。
なにもわからない。この世ってなにもわからないね。