2020.11.17「須賀敦子という橋/羅小黒戦記/ゾンビ」

須賀敦子のエッセイを読んでは、エッセイで紹介されていた本を読んでいる。すぐに読めるわけでもないのに、3冊一気に本を買ってしまった。

インターネット上の文章や現代の作家の文章は、今の感覚で書かれているという点において刺激的で、共感性の高いものが多い。
けれど感覚が近すぎるだけに、読んでいて疲れてしまったり、心の拠り所になり得ないことがある。
海外文学や古典と呼ばれる作品には、そういった近しさから生まれる息苦しさを解いてもらえるように感じる。

このツイートにある「クラシック」はそのまま文学における古典にも置き換えられると思っている。(「毎日名付けられる多くのもの」の世界には、J-popが含まれると思っている。)

ただ古典や海外の作品は、自分からは遠い存在なだけに取っつきにくく、手に取るきっかけが少ない。そうした遠い作品との橋渡しをしてくれるのが須賀敦子の文章であり、翻訳だと感じる。

この人の生まれは神戸で、エッセイには夙川や岡本など、母方の実家が兵庫の自分にとって見慣れた地名が登場する。同時に父親の転勤で東京に引っ越してからの出来事を綴った文章には、今の自分が良く知る都内の地名や景色が描かれている。
須賀敦子といえばイタリア、フランス、ヨーロッパでの生活という印象があったが、今は彼女の幼いころから学生時代にかけての日々と、その中で出会った本にまつわる文章を読んでいる。
幼いころの読書体験について、ここまで克明に言語化している文章を初めて読んだ。関西の昔ながらの家庭の様子や、勉強に追われる日々の感覚。生きた時代は全く違うが、柔らかい言語感覚によってこの人の感性が馴染んでいくのが心地良い。

 

『羅小黒戦記』を観た。わかりやすい物語でありながら、そのセリフの一つ一つに現代の感覚が染み渡っていて気持ち良く観られた。
こういう作品が生まれる一方で、確実にファンのいる作品がゾンビのように生き返ったり生きながらえたりしている。それ自体はそういう現象でしかないので良いとも悪いとも思わないが、そのせいで作品を愛した過去まで否定したくない。
ゾンビになってもきれいでいてくれる? いざとなったらアダム・ドライバーに首を跳ねてもらおう。