2021.10.10「舞台上の一人称」

f:id:otituku:20220220163158j:plain

部屋に篭って作業とアイドルマスターだけをやっていたので特に書くことがない。

部屋に篭っているとやるべきことに手をつける前に最悪インターネットの巡回をしてしまい、最悪になる。なぜこういうことを人は繰り返してしまうのか。

最悪インターネットを見続けた後だと(いや、そうでなくとも)サイスタのストーリーで毎話泣いている。あまりにも全てが正しく、全てが優しく、愛おしいので...。
プロデューサーがずっと信頼できる存在であり、かつ一人称が「私」であり、かつ人格的に性別を感じさせないのが本当に嬉しい。SideMは基本的にずっとそうだが、サイスタはモバエム以上にプロデューサーが介入していく形で物語が進んでいくので、プロデューサーの人格の影響は大きい。
やっぱり一人称が問答無用で「俺」だと、どうやっても他人でしか無くなってしまう。基本的にそれほど強くロールプレイ感を求めているわけではないが、でもアイドルに対する距離感や口調に対する違和感というのはどうしても生まれる。
サイスタのプロデューサーが男性だと認識する人もいるだろうし、女性と捉える人もいるだろうけど、私はどちらとも思っていないようなところがある。というか自分が自分として彼らに接する時、別に自分の性別を認識して接したいとは思わないから......。なんと言えばいいんだろうな。
他の男性キャラクター中心のゲームだと、主人公はわかりやすく女性で固定されることが多い(気がする、私はそんなにソシャゲを知らない)。口調からどうしてもそう見えることが多くて、そうなったらそれはそれでまた「他者」だなと感じてしまう。
何もわからなくなってきたな。ただただ限りなく仕事をする時の口調だから好きなだけかもしれない。プロデューサーは仕事であることをちゃんとわかっていてくれてありがとう。

ところでVtuberの一人称がブレる時にわざわざそれを「言い直す」という行為ってどういう意味を持つと思いますか? たとえばそれは我々にとっては公的空間における一人称と私的空間における一人称の使い分けに誤差が生じただけというふうに映るわけですが、それをわざわざ「言い直す」ことは現実においてはほとんどないと思うんですよね。職場の人が家での口調になったからといってそれを咎める人もいないし、本人も気づかないままのことの方が多いですよね。でもVtuberが一人称を言い直した瞬間、それは彼ら彼女らが保っていたフィクショナルキャラクタに亀裂が生じたと「認める」ことになるのではないかと思うんですが、そうしてでもわざわざ言い直すのはどういうことだと思いますか? 私は亀裂が生じたのは舞台上(公的空間)と舞台裏(私的空間)の間の厳然たる(ものとして本人たちが保とうとしている)境界であると認識することでしか脳が納得してくれなかったんですが、みんなはどうですか? それとももっと単純なメタとして受け取った方がいいんでしょうか。でもVtuberのメタを私の脳はそんなに単純に受け取ろうとはしてくれないので、困っています。

↑気が狂ったので読まないでください

画像を拡大表示

「すばらしき世界」のBDが届いた。いいジャケットだ。
なぜ副音声がないんだ?! 三谷幸喜の映画ばかり見ていたので副音声ってどの映画でもついているものだと思っていたら、別にそんなことはないらしい。各場面を見ながら監督に解説してほしいのに......。