2020.4.2「そういえばこうだった」

昨夜、吉田篤弘の「おやすみ、東京」を読了した。ちょうど午前一時に差し掛かる時間に読み終えた。
吉田篤弘はやっぱりラストが良い。こう書くとネタバレになってしまいそうだが、彼の作品にネタバレもなにもないと思っている。文章の醸し出す空気の中に入るのが気持ちのいい作家だから。はやく夜の東京を歩きたい。

だんだんと自分が内にこもっていくのを感じる。吉田篤弘を読んで、くるりを聴いて、ラヴェルを聴いて、昔の自分へと退行していっているような感覚。今日ついに中高時代に読みふけっていた海藤尊の新刊を読んだ。伊坂幸太郎の本も買った。いよいよ体感が10年前に近づいている。
そういえば、自分はこうだった。何も楽しみがなかった小学校時代は本ばかり読んでいた。私が本を読まなくなったのは、それ以外の色々な楽しみを知ったからだ。本の楽しみを思い出せるのは嬉しいことだ。

今は積読していた吉田篤弘の「台所のラジオ」を少しずつ読んでいる。食べ物を美味しく描く天才が、ついに食べ物ばかり出てくる小説を書いた。短編集なのでちょっとした隙間の時間に読める。
吉田篤弘の小説を読んでいる時は、物語を追うという感覚ではない。文章を読むことで「その世界」の中に浸れる。中高の行き帰り、現実逃避のように電車の中で読みふけっていたな。現実のことを忘れたければ、吉田篤弘の本を開く。今も全く同じ状態になっている。

ネッド・ローレムという現代の作曲家の曲と、でんぱ組の曲を交互に聴くというめちゃくちゃをやっている。ネッド・ローレムは弦楽四重奏が割と難しい印象だったが、ピアノ曲は美しい。でんぱ組は強い。

 

街行く人々の口元が見えないから、全員不機嫌そうに見える。多分実際にそうだろうし。
ドラッグストアで前の人たちが全員不機嫌そうなので、私は自分に出せる最大限の愛想と笑顔で買い物をした。店員さんも少し声が柔らかくなった気がして嬉しかった。
でもこうやって無理をすることで、自分をすり減らしている気もする。昨日の夜から今日の朝にかけて軽い鬱状態だった。最近、週の半ばに一度精神が折れている気がする。職場のことは大好きなので、これは世界のせい。
自分のことを過信しすぎないようにしなければと思う。自分は思っているより体力がないし、思っているより精神的に強くもない。
この一年ものすごくアクティブに生きていたようで、それは好きなものに囲まれていたからで、本来自分は内にこもりやすい性格であること(というか内にこもりながら行動しまくっていただけであること)。いつのまにか精神的に限界が来ること。せめて「いつのまにか」ではないようにしたい。