2021.10.20「観客席からの言葉」

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最上静香さんが「お願い! シンデレラ」を.....。

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如月千早さんがSpread the Wings!!を......。

如月千早さんの歌声でこの曲を歌われた瞬間脳からあらゆる思考が消えてもう全てどうでもよくなってしまった。如月千早さんがSpread the Wings‼︎を歌い踊る姿が見られたらもう、いいだろ、この世は.....。

スタマスはようやく5月を終えて6月に入った。いよいよ765プロと283プロが交流を深めていて本当に最高になってきた。
ゲームの仕組みは難しく、多分ここから先かなり苦労するんだとは思うけど、それも含めて「プロデュース」であるという実感がある。なんか歴代箱マスの異常な難易度を、「プロデュース感」に必要なレベルに調整してくれている感じがする。

今日1日「エモい」ということについて考えていた。

自らのパフォーマンスに対して「エモかった」と言うのは予防線に聞こえる、と書いたが、どちらかというと客観視と言った方がふさわしい気がする。
「パフォーマンスをする〇〇(任意のVtuberの名前 別にVtuberに限らないが)」を客観視した上で、その物語の観客の一人として「エモい」と思っている、ように聞こえる。
アイドルマスターのライブについて演者の方が感想で「エモかった」と言うのと印象が近いかもしれない。アイドルマスターのライブでその場所に立っているのは演者の方々だが、私たちはそこにアイドルの姿とその物語を見ている。それはおそらく演者の方にとっても動揺で、彼らはアイドル本人ではないからこそ、自分たちのパフォーマンスを「アイドル本人のパフォーマンス」として外から眺めることができる。

例えばこれがフィクショナルキャラクタを極限まで保っているタイプのVtuverだった場合、「エモい」という言葉を使うだろうか。
私たちが自らの行動をそのような言葉で評する場合、自身のキャラクターや属性、外から見て自分と他人の関係がどのような「関係性」に見えるかといった視点が存在するように思う。フィクショナルキャラクタを100%保っている状態では、そのような視点による発言は行わないのではないだろうか。
私が聞いたVtuberの自らのパフォーマンスに対する「エモい」という言葉は、自身のフィクショナルキャラクタから外に抜け出して、自分自身の物語を観客席から眺めた時の感想のように聞こえる。そういうことが人間の肉体を持った我々よりもやりやすい場所にいる存在。

でも結局エモさ調整パウダーのことは全然わからないな。あれの何がエモかったんだ。フィルターをかけた加工写真に対する「エモい」みたいな、そういう使用例の一つ? でも味覚に対して「エモい」と思ったことがないから、どれがその感覚に当たるのかわからない。その感覚を社内で共有してから命名してくれ。