2020.3.26「読書」

数日前に本を買った。クレストブックスという海外文学の短編集を集めたシリーズの一つで、「記憶に残っていること」というもの。

もともと海外文学を読むのが苦手で、好きな作家を見つけられていなかった。一番読んだのは、多分小学生の時にはまったアレックス・シアラーの小説。それ以降、特定の海外作家にはまったことがない。
それで、好きな作家を見つけるきっかけを作りたいという気持ちもあり、複数作家の短編を集めたクレストブックスを買った。このシリーズのデザインに昔から惹かれていたので、ようやく買えたという感じ。

短編だと拒否反応もなく、割とすぐに読み切ることができた。ジュンパ・ラヒリという作家の短編が良かったので、この作家の短編を集めた「停電の夜に」を文庫で買った。こちらはまだ最初の方。

昔あんなに読んでいた小説を今ではすっかり読まなくなった。中学生の時に吉田篤弘にはまってからはそればっかりで、その前は海堂尊のバチスタシリーズばっかり(これは推し目当て)、その前は伊坂幸太郎ばっかり読んでいた。一人の作家にはまるとそればかり読むたちなので、出会いがないのを言い訳に本自体を読まなくなっていたようだ。

アレックス・シアラーのことを久しぶりに思い出したので、検索してみると懐かしいタイトルが並んでいる。「世界でたった一人の子」は読んだ後にラジオドラマでやっているのを聞いていた。ラジオドラマで気に入った小説を読んだこともあった。

昔は物語を追うタイプの読書をしていたのに、吉田篤弘にはまってからはずっと「文章を味わう」タイプの読み方ばかりするようになっていた。いや、その前からか。高楼方子の「11月の扉」の冒頭の文房具屋の描写が好きで、その部分ばかり繰り返して読んでいた。荻原規子の「樹上のゆりかご」の中の購買のパンの描写が好きで、その部分も繰り返して読んでいた。ムーミンシリーズの小説にはまっていたのも、文体が好きだったというのが大きかった。

中高生くらいでなんとなく「物語を追う=エンターテインメント小説」という意識が形成されてしまい、そういった読み方をする小説を敬遠するようになったのは、ある意味の中二病かもしれない。でもだからといって純文学のような小説を読む体力もそれほどなかったので、結果として本を読む行為そのものから離れてしまったのかもしれない。

「記憶に残っていること」で、久しぶりに物語を追うことを楽しんで読めたような気がする。もちろん好きな描写や表現というのは無数にあっても、初めて読む本の続きが気になって読む、という読み方をしたのがすごく久しぶりだった。(吉田篤弘の本は先が気になる、というたぐいではない。私の場合)

部屋には積読の本がかなり溜まっているが、なかなか手がつけられない。だいたいの本が真ん中くらいまで読んだところで終わっている。
映画もそうで、アマゾンプライムなどの配信で映画を見ていると、なかなか最後まで見られない。後半の「転・結」に興味がないのかもしれない。ミュージカルならば、とにかく楽しい曲が次々と現れる第一幕が好きだ。泣きの曲が増える第二幕にあまり関心がない。やっぱり映画は拘束された状態でないと意味がない。私たちに映画館を返してくれ。早稲田松竹を返してくれ。