2020.3.25「計画」

何かの予定が変更することが苦手だ。昔から、自分の計画が不可抗力によって変わることが嫌だった。

インターネットを見ていると、あらゆる場所で「中止」や「延期」の二文字を見る。いや、インターネットだけではなく、街角の掲示板でも。下北沢を歩いていたら、たくさんの劇場、その前にある看板、貼られたたくさんのチラシ、その上に貼られた「中止」の二文字。

その文字を見るたびに、少しずつダメージを受けている自分がいる。私がライブや演劇がなければ生きていけないタイプの人間だからというのもあるし、エンターテインメントがゆっくりと死んでいくのを見るのが辛いというのもある。
しかしおそらくそれ以上に、誰かが「計画」を断念したこと、変更を余儀なくされていることが嫌なのだと思う。

映画「パラサイト」には「計画」という言葉が何度も登場する。主人公の父親は「無計画」であることこそが失敗しない唯一の計画だと語る。
確かにその通り。計画するから、道は途絶える。夢を持つから、諦める。

誰かが夢を諦める様子を見るのが昔から苦手だった。中学くらいの頃、ピアノの先生を目指して音大に入った年上のいとこが、旅行会社に就職したとき、ものすごくショックを受けたことを覚えている。友達がなりたいと語った職業と全く別の道を選択したときも、勝手に落ち込んでいた。
もちろんこれらはすべてただのエゴで、「本人が納得しているならそれでいい」ということを百も承知の上で、私は勝手に落ち込んでいる赤の他人だった。誰でもそうなのだろうか。自分のことにそんな風に落ち込んだことなど一度もないのに。

思えば自分は「計画が変更すること」「夢を諦めること」が極力自分の身に起きないように生きてきた。常に一番ネガティブな部分に予防線を張り、本当の計画も、本当の夢も、自分に隠して生きてきた気がする。自分のことは自分でわかっていると思いつつも、隠している間にそれを忘れることも多々あった気がする。断言できないのは覚えていないからだ。

昨日、おそらく自分が接している世界の中で一番大きな計画が延期するというニュースが流れた。自分が直接関わっているわけでもないのにものすごい精神的なダメージを受けた。何よりその計画が誰にも望まれていないように見えるインターネットが嫌だった。計画に携わった人の人生、計画に向かっていた人の人生、計画を夢として追い続けていた人の人生。
ある友人は今年までに劇場にお客を1000人集めるという計画を高校生の私に語った。今年、劇場の扉は開くのだろうか。

パラサイトの主人公は、それでも「計画」は立てなければいけないと語る。本当にその通りだと思う。そうでなければ何もできない。でも今の私には何の計画も立てられそうにない。せめて今日の夜、明日の夜、何の本を読もうか、何の映画を観ようか、そのくらいの計画は実現できたらいいなと思う。